ゼロから学ぶアメリカ合衆国

ゼロから学んだアメリカ合衆国をわかりやすく説明

迫害される黒人

黒人の入植に関する最も古い記録は黒人に対する差別は顕著でなかった。 彼らにとって重要なのはキリスト教徒か否かであって、洗礼を受けた黒人には白人と 同じ法律が適用された。 当初黒人奴隷は年季奉公人とみなされ、白人黒人にかかわりなく同じ扱いを受け…

奴隷制度

1676年のベーコンの反乱は、大農園主に大きなショックを与えた。 年季奉公人は自由になれば、反乱に加担した下層階級の一員となる。 それなら黒人奴隷を雇えば、平和な世の中になるのでは?と考えるようになる。 そもそも黒人奴隷は高額で、1/3の費用で済む…

ベーコンの反乱

17世紀後半に、英語圏は深刻な不況に陥った。オランダを標的にした八十年戦争が終了し、今度はオランダ商人との貿易戦争に突入したのである。 1651年にはオランダ締め出しを目的とした航海法が制定され、保護貿易政策が始まる。物価は高騰し、不景気に伴う税…

社会構造の問題

人頭権制度は、年季奉公人を雇える金持ちだけが潤う結果になった。 彼らは川沿いの水運に恵まれた肥沃な土地を独占し、 年季奉公を終えた人たちには不便な僻地しか残されていなかった。 僻地では先住民と接触することも度々で、衝突も増えた。 議会で発言し…

先住民との衝突

植民地の発展は、先住民との軋轢という問題を生み出した。 飢餓と疫病で被害妄想に陥った入植1年目から、銃で先住民を脅して食料を略奪することが行われた。 互いの文化・価値観の違いを乗り越えることもできなかった。 先住民には土地の私有という概念がな…

1619年の改革

経済活性化のために、1619年に改革が行われた。 一つは人頭権制度で、一人当たり50エーカー(650メートル四方)の土地私有を認めた。 自分が切り開いても結局は皆の土地とされた頃と比べて、俄然意欲が湧く。 使用人もカウントされるので、大勢の使用人を雇う余裕…

ヴァージニア会社

1607年に入植した人たちは、当時の国王の名前にちなんだジェームズタウンを建設する。(この町は、ヴァージニア州で現在も存続している。) しかし、黄金探しに夢中で労働意欲が乏しく、マラリアと食糧難に苦しむ。 この危機を救ったのが、ジョン・ロルフだ…

ヴァージニア植民地 プロローグ

アメリカ合衆国建国に繋がる最初の植民地が、ヴァージニアである。 名称は、1578年に入植プロジェクトを認可した未婚の女王エリザベス1世にちなむ。 入植と殖産を目的とした「ヴァージニア会社」がロンドンで設立される。 経営者である貴族階級が事業計画を発…

西洋人による探検と征服

西洋人による新大陸探検の先駆者は、北欧のバイキングである。 日本では藤原氏が全盛を極めた10,11世紀の出来事である。 例えばグリーンランド島には、982年以降に入植たという記録が残るが、 永続しなかったことと、大陸ではなく島であることから、通常は除…

黒人

奴隷制度 目次へ 戻る

大衆政治へ

1829年に第7代大統領に就任したアンドリュー・ジャクソンは、14歳で孤児になるが、米英戦争やセミノール戦争で戦功を立てた国民的英雄だった。無学で貧しい庶民の代表だった。かつての政治はエリートのものだった。例えば大陸会議のメンバーは無給のボランテ…

モンロー主義

米英戦争で焼き討ちに遭った大統領官邸は、戦後に焦げ跡を隠すために白いペンキで塗られた。以降はホワイトハウスと呼ばれるようになる。ボルチモア戦を目撃したスコット・キーは、その様子を「星条旗よ永遠なれ」という詩で表現し、アメリカ国歌となった。 181…

米英戦争(1812~14)

ナポレオンが1804年に皇帝として即位すると、英仏で戦争が再開される。敵国と貿易する船舶も攻撃対象となった。経済を対外貿易に依存していたアメリカは、大西洋上で商船を頻繁に拿捕された。特に英国海軍は「元のイギリス人は、いつまでもイギリス人」という…

ルイジアナ購入と西部開拓

1801年、トマス・ジェファソンは第3代大統領として就任する。彼はワシントン政権下では国務長官、アダムス政権下では副大統領として入閣したキャリアがあった。彼は「独断」で様々な決断を下した最初の大統領である。その最たるものが、フランス領ルイジアナの…

政党政治

考え方の潮流は複数存在していたとはいえ、建国時に政党というものは存在しなかった。主権のウエイトを州と連邦政府のどちらに置くか、大きい州と小さい州の利害、北部と南部といった潮流があった。こうした違いを話し合いで解決するのが、大陸会議および連…

独立宣言

第五部の内容で誰でも知っている語句といえば、「ワシントン」と「独立宣言」だろう。1776年7月4日に起草され、この日が独立記念日となっている。「すべての人間は平等であり、自由・幸福を追求する権利があり、何人たりともそれを妨害する権限はない」という趣旨…

国家建設と憲法制定

アメリカ合衆国という国体が設立され、独立宣言の翌年に制定された「連合規約(AoC)」に基づいて大陸会議が運営されたが、そこに行政・司法機関は存在しなかった。立法府である連邦議会は一院のみ、票数も13(各州1票)しかなかった。法案の成立は全会一致が必要で…

国家建設と憲法制定

アメリカ合衆国という国体が設立され、独立宣言の翌年に制定された「連合規約(AoC)」に基づいて大陸会議が運営されたが、そこに行政・司法機関は存在しなかった。立法府である連邦議会は一院のみ、票数も13(各州1票)しかなかった。法案の成立は全会一致が必要で…

第五部 建国から南北戦争まで

アメリカ合衆国の歴史は 、速やかに独立戦争に勝利し、ワシントン大統領が独立宣言を読み上げて憲法を発布した。というような単純なものではない。上記の内容はすべて”イメージ”で、事実に反する。 第五部はかなり踏み込んだ内容となっているが、平易な内容…

ヨーロッパ列強の入植史

アメリカへの植民を行ったのは、イギリスだけではない。陸続きのカナダも含めて、その歴史を国ごとに解説していく。 イギリス カナダのニューファンドランド島と、マサチューセッツ、ヴァージニアの3か所から植民を始め、北米大陸の大西洋岸を掌握する。七年…

独立戦争(アメリカ革命)

日本では「独立戦争」で通っているが、現在のアメリカでは"American Revolution"または"Revolutionary War"と表記され、”独立”ではなく”革命”という言葉が使われている。 戦闘は1775年に最北のボストンから始まり、ニューヨーク、フィラデルフィアと南下した。…

ボストン茶会事件(Boston Tea Party)

13植民地の表向きは平穏だったが、1773年の紅茶法は致命傷となった。 紅茶の不良在庫に悩み,経営の苦しかった国策東インド会社を救済するため、東インド会社に紅茶の専売権を与えたのだ。現在は紅茶だけだが、行く行くは植民地貿易全体を本国が独占するよう…

植民地の反発 「相応の税負担」

大西洋とアパラチア山脈を挟まれた13植民地は、その背後をフランス領に囲まれていたが、七年戦争に勝利して大陸のフランス領は駆逐された。戦費回収に悩んだ本国は、植民地にも相応の防衛費を負担してもらおうと考える。「宿舎割当法」は、大陸イギリス軍の食…

七年戦争 意識のすれ違い

アメリカにはオランダやスペインも進出したが、衝突が生じた相手はフランスだった。1689~1763年の間に4回の戦争を経験している。特にヨーロッパでは「七年戦争」と呼ばれた戦闘は、新大陸でも大きな影響を及ぼした。植民地のイギリス軍は、食料や人員を現地調…

特異な存在の植民地

建国時点で13あった植民地だが、そのシステムをおさらいする。 新大陸は未開の地だったが、勝手に移住して良いわけではなかった。国王からの特許状が必要だった。 未開の地で、独りでは生きて行けない。共同体が必要になる。資金や船舶、船乗りなども必要に…

中部・・・ニューヨーク植民地

中部を探検し、植民したのはオランダだった。1625年にはハドソン川の河口部マンハッタン島へ定住した。先住民との毛皮貿易で栄えたが、1664年にイギリス艦隊が侵略し、無抵抗で明け渡す。チャールズ2世は弟のヨーク公を領主とし、「ニューヨーク」と改名する。…

北部・・・マサチューセッツ植民地

1629年にボストンで始まった植民地は、先住民の部族名に因む名前だ。 聖書の教えに忠実に生きようとするピューリタンにとって、英国本土は生活しづらい環境だった。金儲けではなく、信教の自由を求めて、彼らは新大陸へと向かった。理想の実現に向けて、移民…

南部・・・ヴァージニア植民地

入植を承認した女王エリザベス1世にちなんで、その地はヴァージニアと命名された(植民は失敗)。現在のヴァージニア州や首都ワシントンの位置する地域である。 恒久的な植民は1607年以降であり、時の王ジェームズ1世にちなんで、町の名前はジェームズタウンと…

探検から「入植」へ

国際法では、領有権を主張するには、発見と地図の作製だけでは不十分だった。恒久的入植が必要とされていた。 中南米では、サトウキビやタバコなどの商品作物を栽培され、インカ帝国から金を強奪し、銀鉱も見つかった。 カナダでは鱈(タラ)やビーバーの毛皮が…

新大陸への探検

現在のアメリカ合衆国の領土へ到達したのは、「アメリカ」という地名の由来となったアメリゴ・ヴェスプッチともいわれるが、信ぴょう性は乏しい。 13植民地となる地域への公式な一番乗りは1524年のフランス探検隊で、スペイン、イギリス、オランダを加えた四か…