ゼロから学ぶアメリカ合衆国

ゼロから学んだアメリカ合衆国をわかりやすく説明

2019-03-01から1ヶ月間の記事一覧

黒人

奴隷制度 目次へ 戻る

大衆政治へ

1829年に第7代大統領に就任したアンドリュー・ジャクソンは、14歳で孤児になるが、米英戦争やセミノール戦争で戦功を立てた国民的英雄だった。無学で貧しい庶民の代表だった。かつての政治はエリートのものだった。例えば大陸会議のメンバーは無給のボランテ…

モンロー主義

米英戦争で焼き討ちに遭った大統領官邸は、戦後に焦げ跡を隠すために白いペンキで塗られた。以降はホワイトハウスと呼ばれるようになる。ボルチモア戦を目撃したスコット・キーは、その様子を「星条旗よ永遠なれ」という詩で表現し、アメリカ国歌となった。 181…

米英戦争(1812~14)

ナポレオンが1804年に皇帝として即位すると、英仏で戦争が再開される。敵国と貿易する船舶も攻撃対象となった。経済を対外貿易に依存していたアメリカは、大西洋上で商船を頻繁に拿捕された。特に英国海軍は「元のイギリス人は、いつまでもイギリス人」という…

ルイジアナ購入と西部開拓

1801年、トマス・ジェファソンは第3代大統領として就任する。彼はワシントン政権下では国務長官、アダムス政権下では副大統領として入閣したキャリアがあった。彼は「独断」で様々な決断を下した最初の大統領である。その最たるものが、フランス領ルイジアナの…

政党政治

考え方の潮流は複数存在していたとはいえ、建国時に政党というものは存在しなかった。主権のウエイトを州と連邦政府のどちらに置くか、大きい州と小さい州の利害、北部と南部といった潮流があった。こうした違いを話し合いで解決するのが、大陸会議および連…

独立宣言

第五部の内容で誰でも知っている語句といえば、「ワシントン」と「独立宣言」だろう。1776年7月4日に起草され、この日が独立記念日となっている。「すべての人間は平等であり、自由・幸福を追求する権利があり、何人たりともそれを妨害する権限はない」という趣旨…

国家建設と憲法制定

アメリカ合衆国という国体が設立され、独立宣言の翌年に制定された「連合規約(AoC)」に基づいて大陸会議が運営されたが、そこに行政・司法機関は存在しなかった。立法府である連邦議会は一院のみ、票数も13(各州1票)しかなかった。法案の成立は全会一致が必要で…

国家建設と憲法制定

アメリカ合衆国という国体が設立され、独立宣言の翌年に制定された「連合規約(AoC)」に基づいて大陸会議が運営されたが、そこに行政・司法機関は存在しなかった。立法府である連邦議会は一院のみ、票数も13(各州1票)しかなかった。法案の成立は全会一致が必要で…

第五部 建国から南北戦争まで

アメリカ合衆国の歴史は 、速やかに独立戦争に勝利し、ワシントン大統領が独立宣言を読み上げて憲法を発布した。というような単純なものではない。上記の内容はすべて”イメージ”で、事実に反する。 第五部はかなり踏み込んだ内容となっているが、平易な内容…

ヨーロッパ列強の入植史

アメリカへの植民を行ったのは、イギリスだけではない。陸続きのカナダも含めて、その歴史を国ごとに解説していく。 イギリス カナダのニューファンドランド島と、マサチューセッツ、ヴァージニアの3か所から植民を始め、北米大陸の大西洋岸を掌握する。七年…

独立戦争(アメリカ革命)

日本では「独立戦争」で通っているが、現在のアメリカでは"American Revolution"または"Revolutionary War"と表記され、”独立”ではなく”革命”という言葉が使われている。 戦闘は1775年に最北のボストンから始まり、ニューヨーク、フィラデルフィアと南下した。…

ボストン茶会事件(Boston Tea Party)

13植民地の表向きは平穏だったが、1773年の紅茶法は致命傷となった。 紅茶の不良在庫に悩み,経営の苦しかった国策東インド会社を救済するため、東インド会社に紅茶の専売権を与えたのだ。現在は紅茶だけだが、行く行くは植民地貿易全体を本国が独占するよう…

植民地の反発 「相応の税負担」

大西洋とアパラチア山脈を挟まれた13植民地は、その背後をフランス領に囲まれていたが、七年戦争に勝利して大陸のフランス領は駆逐された。戦費回収に悩んだ本国は、植民地にも相応の防衛費を負担してもらおうと考える。「宿舎割当法」は、大陸イギリス軍の食…

七年戦争 意識のすれ違い

アメリカにはオランダやスペインも進出したが、衝突が生じた相手はフランスだった。1689~1763年の間に4回の戦争を経験している。特にヨーロッパでは「七年戦争」と呼ばれた戦闘は、新大陸でも大きな影響を及ぼした。植民地のイギリス軍は、食料や人員を現地調…

特異な存在の植民地

建国時点で13あった植民地だが、そのシステムをおさらいする。 新大陸は未開の地だったが、勝手に移住して良いわけではなかった。国王からの特許状が必要だった。 未開の地で、独りでは生きて行けない。共同体が必要になる。資金や船舶、船乗りなども必要に…

中部・・・ニューヨーク植民地

中部を探検し、植民したのはオランダだった。1625年にはハドソン川の河口部マンハッタン島へ定住した。先住民との毛皮貿易で栄えたが、1664年にイギリス艦隊が侵略し、無抵抗で明け渡す。チャールズ2世は弟のヨーク公を領主とし、「ニューヨーク」と改名する。…

北部・・・マサチューセッツ植民地

1629年にボストンで始まった植民地は、先住民の部族名に因む名前だ。 聖書の教えに忠実に生きようとするピューリタンにとって、英国本土は生活しづらい環境だった。金儲けではなく、信教の自由を求めて、彼らは新大陸へと向かった。理想の実現に向けて、移民…

南部・・・ヴァージニア植民地

入植を承認した女王エリザベス1世にちなんで、その地はヴァージニアと命名された(植民は失敗)。現在のヴァージニア州や首都ワシントンの位置する地域である。 恒久的な植民は1607年以降であり、時の王ジェームズ1世にちなんで、町の名前はジェームズタウンと…

探検から「入植」へ

国際法では、領有権を主張するには、発見と地図の作製だけでは不十分だった。恒久的入植が必要とされていた。 中南米では、サトウキビやタバコなどの商品作物を栽培され、インカ帝国から金を強奪し、銀鉱も見つかった。 カナダでは鱈(タラ)やビーバーの毛皮が…

新大陸への探検

現在のアメリカ合衆国の領土へ到達したのは、「アメリカ」という地名の由来となったアメリゴ・ヴェスプッチともいわれるが、信ぴょう性は乏しい。 13植民地となる地域への公式な一番乗りは1524年のフランス探検隊で、スペイン、イギリス、オランダを加えた四か…

第四部 建国の経緯

ここでは、新大陸の発見(再発見)から独立に至る約300年間を駆け足でたどる。入植の経緯や生活環境を考察して、今みられる「アメリカらしさ」の源流を発見したい。 目次 1500 新大陸への探検 1590 「探検」から「入植]へ 1600 南部・・・ヴァージニア植民地 1620 北部…