ゼロから学ぶアメリカ合衆国

ゼロから学んだアメリカ合衆国をわかりやすく説明

冷戦

 

アメリカとソ連という超大国同士が、戦争で直接対決するのは現実的ではなかった。

国土の広さと国力のスケールは今まで人類が建国した国家を超越しており、

どちらが勝っても共倒れに終わることは必至だった。

それで、いかに同盟国を増やすかが重要なことになった。

こうした間接的な戦いは、冷戦と呼ばれる。

  朝鮮半島を舞台にした朝鮮戦争では、米ソの兵士が現地に派遣された最初の代理戦争になった。その後も、スエズ運河の利権を巡る争いなどにも関与する。

 ソ連核兵器を持つようになると、直接対決は一層現実的ではなくなる。

アメリカはベトナム戦争に深く介入することで、著しく国力を落としてしまった。

ソ連も1979年以降アフガニスタンに介入することで、著しく国力が落ちた。

改革が叫ばれる中で登場したゴルバチョフは内政を見誤り、ソ連は崩壊する。

 

ソ連の台頭

第一次世界大戦へのアメリカ参戦と同じ1917年、社会主義国ソ連が誕生した。

当初は世界全体で社会主義革命を起こそうとしたため、諸外国はソ連を潰しにかかる。しかし現実主義者のスターリンが実権を握って”革命の輸出”を諦めると、国際社会で認知され始める。

 世界恐慌以降、アメリカは自国製品の最大市場としてソ連を無視するわけにはいかず、両者は持ちつ持たれつの関係になる。

 

 第二次世界大戦の主戦場はヨーロッパ地域だったが、アメリカが参戦したのは資本主義世界の西部戦線だった。

泥沼の東部戦線(ドイツvsソ連)には派兵しなかったおかげで、人的犠牲を増やさずには済んだが、独力でドイツを退けたソ連に強い発言力を与えることになった。

歴代大統領が短期的な国益を追求した結果、内にも外にも不安定だった国は怪物に変貌していた。

帝国主義国家へ

アメリカは、宗主国のイギリスに負けず劣らずの征服欲を持つ国家だった。メキシコからテキサス~カリフォルニアにかけての広大な領土を奪い、ハワイ王国を併合した。

19世紀末にはスペインと戦争して、フィリピン・グアム・プエルトリコなどを奪った。

自国の工業製品の販路とすべく、中南米の政権に肩入れし、現地経済を支配した。

こうした征服路線の大義名分となったのが、モンロー宣言である。

モンロー主義に従って、「西半球(南北アメリカと太平洋)」を支配していったのである。

この路線は、1905年にセオドア・ルーズベルト大統領が、満州の権益を懸けた日露戦争の講話を斡旋することにより、ピークを迎える。

ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発した際、ウィルソン大統領は参戦を熱望したが、議会や世論がモンロー宣言を順守する路線だったため、ドイツの攻撃を受けるまで叶わなかった。

世界一の工業国へ

 南北戦争は、北部の工業力が南部の農業に勝利したことでもあった。

綿花栽培における奴隷労働は、皮肉にも機械の仕事に取って代わった。

農業機械の導入は、南北戦争中にも食糧の生産量を大いに増やした。

19世紀末に工業生産量は、イギリスやプロイセン(ドイツ)を抜いて、世界1位になる。

 豊富な資源・労働力・市場といった要素は言うまでもないが、他国との違いは「工程の機械化分業化」である。

 広大な土地を少ない人数で管理する必要のあったアメリカでは、発明に熱心だった。

19世紀における特許件数は他を圧倒しており、エジソンのような発明家を輩出した。

 もう一つは「アメリカ式製造方式」と呼ばれるものである。

従来の生産工程では、一人の熟練職人がすべての工程を手作業していた。

ところが熟練工不足のアメリカでは、製造工程を素人でもできる単純作業に分解した。

一つの部品しか作れない素人のおかげで部品の互換性が実現し、メンテナンスの簡単な製品が出来上がった。

こうした効率化は、フォード車の流れ作業方式に発展する。

 

南北問題

建国から時代が進むにつれて、南北の対立が深刻化した。

 対立の中心には、南部経済を支えた奴隷制度があった。

建国黎明期に黒人奴隷による労働はピークを過ぎており、いずれ奴隷制度は自然消滅する運命にあると考えられた。

ところが、1793年に綿から種を取り除く装置が発明され、作業効率が50倍も向上する。

綿花栽培というアイコンの誕生により、南部では奴隷労働によるプランテーションが息を吹き返す。

連邦(合衆国)政府は州を増やす際、南部の奴隷州と北部の自由州が同数になるように調整し、議会の発言力で南北均等になるようにした。

ところが1850年には限界に達し、連邦政府は匙を投げて、各州に判断を委ねる方向へ転換する。

危機感を抱いた南部は合衆国を離脱して、南北戦争に発展する。国が真っ二つに割れた問題は、武力によって解決された。

 

国土の安定化

アメリカとヨーロッパ本国の間には大西洋という天然の要害が立ちはだかるが、

イギリス・フランス・スペイン・ロシアといった危険な大国と陸続きで接していた。

この問題を解決すべく、フランス領ルイジアナスペイン領フロリダ・ロシア領アラスカなどを購入した。こうしてヨーロッパとの国境は、英領カナダのみとなった。

 広大な国土を結び付けるべく、有料道路、運河、鉄道などを建設した。

 

アメリカの国是

 アメリカ合衆国初代大統領は、言わずと知れたジョージ・ワシントンである。

英雄的な業績とは対照的に、彼は控え目な人柄で、調整能力に長けた人物だった。

結びつきが弱く、事実上外国同士のような13州を民主的にまとめるには、

カリスマ的指導よりも、各州の利害を調整する能力が必要だったのである。

ワシントンが大統領に就任して間もない1789年に、ヨーロッパではフランス革命が始まり、欧米の勢力分布が揺れ始める。

ワシントンは、どの勢力にも味方せず中立の立場を表明する。若いアメリカを不必要な危険から守り、国内の地盤を固めることに力を注ぐことを選んだ。

 

ワシントンによる中立路線は、1823年の[モンロー宣言]によって完成される。

中南米で植民地独立運動が活発化したので、ヨーロッパの野心が再びアメリカ大陸へと向けられた。

アメリカはヨーロッパ大陸の出来事に干渉するつもりはないし、ヨーロッパがアメリカ大陸に手出ししたら許さないという「相互不干渉」の外交スタンスである。