ゼロから学ぶアメリカ合衆国

ゼロから学んだアメリカ合衆国をわかりやすく説明

大衆政治へ

 1829年に第7代大統領に就任したアンドリュー・ジャクソンは、14歳で孤児になるが、米英戦争セミノール戦争で戦功を立てた国民的英雄だった。無学で貧しい庶民の代表だった。かつての政治はエリートのものだった。例えば大陸会議のメンバーは無給のボランティアだった。生活基盤があってこそ、政治に利害を持ち込まない高潔なスタイルを実現できると考えた。モンロー大統領までのいでたちは、カツラをかぶって短パンを履く貴族スタイルだった。大統領選挙も、アダムズJr.の代までは議会の秘密会合で候補を指名していたが、ジャクソンの時は党大会で指名するというオープンなものに変わった。

ジャクソンは大統領の権限を大いに強めた。「戦利品システム」と呼ばれる、大統領選挙で自分を支持した人間を内閣のみならず役人全般にまで起用する、連邦政府公務員の私物化を実施した。大統領の拒否権行使も、以前は憲法に抵触する議決に対してだったが、彼は自分の気に食わない法案にも次々と行使した。その姿は、民衆の求める強いリーダーそのものだった。一方では、小さい政府を信念とし、連邦政府の赤字を出さないなど、画期的成果を残している。軍人時代の先住民虐殺も凄かったが、1830年に「先住民移住法」を実施し、未開の西部へ追放したのもジャクソンである。

 

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モンロー主義

 米英戦争で焼き討ちに遭った大統領官邸は、戦後に焦げ跡を隠すために白いペンキで塗られた。以降はホワイトハウスと呼ばれるようになる。ボルチモア戦を目撃したスコット・キーは、その様子を「星条旗よ永遠なれ」という詩で表現し、アメリカ国歌となった。

  1817年に第五代大統領モンローが就任すると、ジョージア州周辺の先住民対策に乗り出す。スペインがセミノール族を煽動して騒ぎを起こさせ、避難先としてフロリダを提供していたのである。鎮圧に派遣されたのが、先述ニューオリンズの戦いの英雄であるジャクソン将軍である。結果的にフロリダはアメリカ領になり、スペインの脅威は取り除かれた。

この頃、中南米植民地の独立運動が盛んになるが、宗主国スペインに足並みを揃えて対抗するよう英国がアメリカに呼びかける。その答えが1823年のモンロー宣言だった。「新大陸は、いかなるヨーロッパ列強によっても、植民地化の対象と考えられるべきではない」という趣旨で、欧米の相互不干渉を説いた。肝心なのは、英国(欧州)との共同ではなく、単独で宣言したことである。アメリカの外交スタンスを明らかにした宣言は、ワシントンの中立路線を継承しているが、アメリカ合衆国ならず、新大陸および西半球(太平洋)まで領域を拡大したことである。宣言当時の目的は、アラスカから南下するロシアをけん制することだった。さらにモンローは、アフリカ大陸のリベリアに土地を得、解放奴隷を植民するプロジェクトを行使した。

 ちなみにモンロー宣言の原稿を考えたのが、国務長官のジョン・クインシー・アダムズで、2代目大統領の息子である。彼は、モンローの跡を継いで、第6代大統領になる。

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米英戦争(1812~14)

ナポレオンが1804年に皇帝として即位すると、英仏で戦争が再開される。敵国と貿易する船舶も攻撃対象となった。経済を対外貿易に依存していたアメリカは、大西洋上で商船を頻繁に拿捕された。特に英国海軍は「元のイギリス人は、いつまでもイギリス人」という強引な理論を展開し、植民地時代に生を受けたアメリカ人船員を英国海軍に強制徴用したのだ。

国際問題では中立が国是だったが、ジェファソンの跡を継いだ第4代マディソン大統領は、ナポレオンの詐術に引っ掛かり、「メーコン法第2法案」に基づいて「通商禁止法」をイギリスとの貿易に適用させる。5年にわたるアメリカの経済制裁が功を奏し、帝国議会アメリカ船への嫌がらせを撤回する。しかし大西洋を跨いだ通信事情が災いして、この知らせがアメリカに届く前に戦争は始まった。

アメリカはカナダ侵攻を何度も企てるが、悉く失敗する。イギリスは1814年にナポレオンを退位させると、兵と武器をアメリカ戦線へ補充する。英国軍はワシントンを占領して、首都を焼き討ちにする。開戦に踏み切ったマディソン大統領と南部の議員(リパブリカン党)を、貿易に従事していた北部の人たち(フェデラリスト)は非難し、12月15日には連邦からの離脱も計画する。しかし12/24に講和が結ばれて終戦に至り、翌1/8にニューオリンズの戦いでアメリカが大勝利を収めると、フェデラリストの行動は国家反逆を企てたと衆目に映り、党は瓦解する。

講和と戦闘の記述に違和感を感じただろうか。講和条約はベルギーで締結されたが、アメリカに伝わるまで半月以上かかった。両軍とも終戦を知らずに戦っていたのである。コネチカット州に集まっていたフェデラリストも散会した1/5の時点で、講和を知らなかった。当時の情報や通信の事情は、このようなものだった。7年間の貿易制裁により、イギリスから買っていた工業製品を国内で製造するように産業構造がシフトしたのは、想定外の成果だった。

 

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ルイジアナ購入と西部開拓

1801年、トマス・ジェファソンは第3代大統領として就任する。彼はワシントン政権下では国務長官、アダムス政権下では副大統領として入閣したキャリアがあった。彼は「独断」で様々な決断を下した最初の大統領である。その最たるものが、フランス領ルイジアナの購入である。

合衆国物流の3/8はミシシッピ川の水運に依存していたが、建国以来ミシシッピ川西岸とニューオリンズ港はスペイン領だった。アメリカ船の航行の自由とニューオリンズ港で関税をかけないことが保障されていたが、1800年に野心的なナポレオン率いるフランス領となると状況は変わる。戦争好きで領土的野心の強いフランスの脅威を感じる中、1803年4月にナポレオンからルイジアナ購入が打診される。ナポレオンの気が変わる前に、この千載一遇を逃してはならなかった。外交官ジェームズ・モンローを介して条約をジェファソン個人の資格で批准し、事後に国務長官憲法への造詣が薄い議会へ通したのである。新領土から太平洋までの探検についても、個人の裁量で行う。これを機に、大統領の権限は徐々に拡大していく。

イギリスとスペインへの危機感が探検へと駆り立てた。両国の領土に無断侵入して国際問題へと発展するリスクを厭わなかったが、太平洋を経由して中国まで通じる貿易ルート(水運)を発見する目的は達成できなかった(急峻なロッキー山脈を越えるのは現実的でないことが判明した)。しかし、西部への関心を国民に植え付ける面では成功し、領土拡大と西部開拓は、以後アメリカ国民の関心事となる。

 

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政党政治

考え方の潮流は複数存在していたとはいえ、建国時に政党というものは存在しなかった。主権のウエイトを州と連邦政府のどちらに置くか、大きい州と小さい州の利害、北部と南部といった潮流があった。こうした違いを話し合いで解決するのが、大陸会議および連合会議での「政治」だった。ワシントンらの理想とする姿でもある。実際、議決は全州批准または、3/4の多数決という、かなりハードルの高いものだった。それに伴い、合意にも膨大な期間を要した。公正さと絶対的人望のあったワシントン議長の人格と調整能力を以って成立していた部分も大きい。

しかし、大統領をトップとする行政府が機能し始め、政策の数が激増すると、そうも行かなくなる。ワシントン政権の2期目には、国務長官のトマス・ジェファソンが政府内の意見の対立で政府を去っている。主権のウエイトを州と連邦政府のどちらに寄せるか、農民と商人との利害の対立が原因となり、政党が自然発生する。政府を去ったジェファソンらの民主主義的共和党(リパブリカン)、アダムスやハミルトンらの連邦主義党(フェデラリスト)である。少し前の日本でも、自由党民主党自由民主党という政党が同時期に存在したために混乱を招いたが、上記の理由もあって、リパブリカンフェデラリストと表記することが多い(リパブリカンは現在の共和党ではなく民主党の前身とされる)。

フェデラリストは名前のごとく、集権的な中央政府を志向し、商人が政策の恩恵を受けやすい。

リパブリカンは州の主権を重要視し、各人が主体的に生活する自作農が恩恵を感じやすい。

無党派だったワシントンの後継者はフェデラリストのアダムスになるが、副大統領はリパブリカンのジェファソンだった。これは大統領選挙で2番目に得票した候補を副大統領とする仕組みのためだった。政党政治を念頭に置かない選挙制度は政府運営に深刻な支障を来し、まもなく改められる。

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独立宣言

第五部の内容で誰でも知っている語句といえば、「ワシントン」と「独立宣言」だろう。1776年7月4日に起草され、この日が独立記念日となっている。「すべての人間は平等であり、自由・幸福を追求する権利があり、何人たりともそれを妨害する権限はない」という趣旨の前文が有名である。

何の法的拘束力もない宣言だが、要は植民地の権利を妨害した本国は、我々を統治するには値しない存在となった。だから新しい政府を作って独立するんだということである。悪いは政府を廃して、新しい正義を樹立する権利という、一種の革命思想である。高尚な文言は、アメリカ人のアイデンティティそのものであり、往々にして暴走する。軍事的・経済的に外国を侵略する際にも我田引水でこの原則を持ち出し、外国人と外国政府を勝手に裁き、警察官として行動する。宣言当時の原住民や黒人はどうだったのか?と問い質しくなるが、アメリカ人にとって先住民は「野蛮・原始的かつキリスト教を受け入れない存在」で、人間とカテゴライズするには値しないものだった。

のちに第3代大統領になるトマス・ジェファソンが原稿を作成し、彼は黒人奴隷の開放を明記していた。しかし、奴隷制があまりにも深く南部社会に組み込まれていたため、南部の離脱を恐れたジョン・アダムス(のちの第2代大統領)がこの部分を削除させた。黒人奴隷の身分はあくまで「奴隷」であり、合衆国「市民」ではないという詭弁によって、問題はその後もあいまいにされる。

独立宣言の起草には合衆国2,3代目の大統領がかかわっているが、ワシントンは一切関与していない。

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