ゼロから学ぶアメリカ合衆国

ゼロから学んだアメリカ合衆国をわかりやすく説明

第四部 建国の経緯

  ここでは、新大陸の発見(再発見)から独立に至る約300年間を駆け足でたどる。入植の経緯や生活環境を考察して、今みられる「アメリカらしさ」の源流を発見したい。

目次

1500 新大陸への探検

1590 「探検」から「入植]へ

1600 南部・・・ヴァージニア植民地

1620 北部・・・マサチューセッツ植民地

   中部・・・ニューヨーク植民地

   特異な存在の植民地

1763 七年戦争 意識のすれ違い

   植民地の反発

1773 ボストン茶会事件

1775 アメリカ革命(独立戦争)

   付録:ヨーロッパ列強の入植史

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リーマンショック

 2007年~2010年まで続いた金融恐慌のピークをなす出来事である。

2008年9月にアメリカの投資銀行リーマン・ブラザーズHDが経営破綻したが、

国家による救済が行われなかったために、世界経済がパニックに陥った。

 アメリカ政府は救済措置として、7000億ドル(日本の1年分の国家予算に相当する)をスタートに資金投入を続ける。さらに不振に陥った大企業にも資金介入を行って救済する。中国を中心に各国もドルを買い支えて、翌年6月には金融恐慌から立ち直る。

 ほかの先進国が脱却するまでさらに4年を要したことと、その後も後遺症に苦しんでいるのとは対照的である。相違の大きな要因は、体力(資金力)の差である。日本が全期間で投入した公金の3倍の額を、初動措置で投入したことからもアメリカの基礎体力が伺える。

 

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ソ連崩壊

ソ連崩壊

 第二次世界大戦後、米ソは桁外れな軍事力を背景に世界を席巻した。膨大な軍備費を賄うには、経済力が必要である。

共産圏では労働者の怠慢、技術発展の遅れによって持っている資源を活用できなくなり、生産力が著しく低下した。オイルショックに伴う物価高騰の影響を一番受けたのも共産圏であり、経済は弱体した。ゴルバチョフは改革方法を間違え、社会主義体制を守るつもりが、自らの手で破壊してしまった。同時期に日本のバブルも崩壊し、日本経済も後退した。

アメリカのライバル達は大きく後退した。アメリカ自身も軍備拡張や湾岸戦争で経済を圧迫していたが、新たな力で世界経済をリードする。

IT革命

 冷戦期間中のアメリカは、各地の米軍基地を繋ぐ強力な専用通信回線網を持っていたが、冷戦の終結に伴って回線の一部を民間に解放することにより、インターネット産業が発展した。パソコンの普及と相まって、一連の産業が創出されたのである。IBM,インテル,マイクロソフト等の企業が世界を席巻した。国内の景気も上向き、連邦政府財政赤字は解消された。上記以外にも怪しげな企業も勃興し、世紀末はITバブルに沸いた。こうした恩恵を受けて、クリントン政権は良い時代として記憶されることとなる。

 

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世界のドル($の錬金術)

イギリスの凋落で、第二次世界大戦後、世界の基軸通貨は英ポンドから米ドルへ切り替わった。

世界の富(お金と金塊)の多くがアメリカにあることが、世界で通用するドルの信用源だった。特に、景気変動があっても価値が下がらない金塊を独占していた点が大きい。この圧倒的な経済格差に基づいて、ドルと金の交換率およびドル高○○安という固定相場が各通貨(≒国)と結ばれた。

しかし、アメリカがヨーロッパの戦後復興事業を行うと、多くのドルが欧州へ流出した。ヨーロッパ各国の経済力が回復すると、1945年に固定された為替レートは実態にそぐわなくなった。ヨーロッパ製品は安くて購入しやすいが、アメリカ製品は高くて購入しにくいという現象により、アメリカから一方的に資金が流出するようになった。1971年には輸入超過(貿易赤字)になる。

経済活動の規模も格段に大きくなり、それに伴って貨幣の流通量も急激に増大した。金の採掘ペースをはるかに上回るペースで貨幣が増えたので、金塊を貨幣の信用裏付けとすることが困難になった。

ついにニクソン大統領は、1971年にドルと金塊の交換を停止し、1973年には固定相場制を放棄して、戦後の経済秩序は終了した。

それでもドルを凌ぐ通貨は現れなかった。バブル期にアメリカの土地を買いまくった日本円も、平成になって失速した。

ドルの強みは、「基軸通貨」である。通貨の流通や為替手数料の問題で、国際的な商取引は、現地通貨よりもドル建てが好まれる。結果的に、双方は、アメリカの銀行に開設した口座同士で取引することになり、莫大な銀行手数料を受け取っている。世界中の取引は、必ず米ドルを経由して決済されているのである。

また農産物や資源(原油等)とはじめとする商品先物取引の市場では、決済通貨としてドルを採用している。だからドル紙幣を印刷すれば、アメリカは食料や資源の購入資金に事欠くことがない。巻き紙をドル紙幣に変える錬金術が成り立つ。ほかの通貨で同じことをすると裏付けがないので、既存の紙幣までタダの紙切れになってしまう。

戦後アメリカが設立したIMF(国際通貨基金)も、国際連合の機関としてアメリカの権益を支えている。他国が行えば即査察対象になるような通貨操作も、アメリカが行えば見て見ぬふりをする組織である。ドルが世界の基軸通貨である限り、アメリカは不滅なのである。

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公民権運動

アメリカの奴隷制度は廃止されたが、人種差別は続いた。

特に南部では法律によって選挙権を剥奪され、公共施設で黒人を隔離する政策が取られた。それは、白人(White)が有色人種(Colored)に「汚されないように」するための措置であった。異人種間の結婚はおろか、同じトイレを使うことさえも違法だった。第二次世界大戦で勇敢に戦い、銃後を支えた彼らは失望した。

1955年に黒人女性ローザ・パークスは、バスの車内で白人へ席を譲るよう促されたが、仕事の後で疲れており、席を立たなかった。すると、逮捕・投獄されて罰金刑を言い渡された。彼女は黒人エリアに座っており、何ら法律に触れる行為はしていなかった。

この事件に抗議したのが、キング牧師だった。彼は非暴力による抵抗運動を説き、バス・ボイコット運動を展開した。合衆国最高裁判所は「バス車内での人種隔離は違憲」との判決を出した。その後、レストランや映画館、図書館等様々な公共スペースでボイコットや座り込みによる抵抗運動が広まった。暗殺されたケネディを継いだジョンソン大統領の下、1964年の公民権法、1965年の投票権法が成立し、黒人の権利と平等が法的に認められた。こうした動きは、女性解放運動などにも波及する。

テレビドラマを見ると、黒人と白人の警官がバディを組む姿が映し出されるが、現実には黒人と白人は交友を持たないのが今でも普通である。

「有色人種」には先住民や黄色人種も含まれる。遠い先祖に一人でも有色人種がいれば、白人と認められなかった。

公民権運動には、社会の安定と国家の威信という問題も付きまとった。第二次世界大戦中の労働力不足を補うために、黒人人口の1/3が南部から北部の大都市へ移動した。黒人問題は、南部だけの問題からアメリカ全体の問題へ変化したのである。メディアの発達により、情勢は全米のお茶の間だけでなく、世界中の外国人の目にも晒されたのである。

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ソ連の台頭と国際連合

ソ連の台頭

 アメリカは第二次世界大戦に深入りしなかった結果、傷を負わずに済んだ。

連合国(原語:United Nations)への武器を貸与は、ヨーロッパとその植民地の市場を解放する条件で行い、戦後の市場もリザーブした。

しかし、東部戦線(独ソ戦)を援助しなかったことにより、恒久的な代償を払うことになる。

 

ヨーロッパ大陸でドイツと戦った国家は、ソ連だけだった(ほかの国はドイツに占領されたか、中立の立場を取るしかなかった)。

敵の敵は味方(ドイツの敵は自分達の味方)という考えのもと、水と油のような共産主義勢力を連合国に取り込んだのが、そもそもの間違いだった。

ソ連は、ドイツの猛攻撃を跳ね返せるだけの工業力・天然資源・人口を持っていた。

ソ連英米と共に「ヨーロッパの開放者」として、絶大な発言力を得たのである。

ソ連は、ドイツを追い出した東欧に共産主義政権を樹立させ、アメリカに対抗できる存在になった。

共産主義と資本主義という相容れない考えのゆえに、まもなく米ソは敵対する関係になる。両者が経済・軍事の共同体を作り、冷戦時代と呼ばれる世界の二極化が始まる。

 

国際連合(United Nations)

 平和の使者というクリーンなイメージが伴うが、これは意訳した日本外務省の思惑による。原語UN(United Nations)は「連合国」という意味で、第二次世界大戦戦勝国と同じ名称なのである。実態はアメリカを中心とする連合国が、戦後の世界秩序を構築するための代理機関である。

新大陸と太平洋のみならず、アジア・アフリカ・ヨーロッパを含む世界全体に進出することが目的である。

第二次世界大戦中、アメリカの経済規模は3倍に膨れ上がり、約半分を軍需生産が占めた。戦争後に、肥大化した経済体制を吸収する新たな受け皿が必要だったのである。

安全保障会議におけるソ連の拒否権が泣き所となってしまったが、国連はアメリカの権益を遂行するための代理機関として機能し続けている。

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新世界秩序の構築

ウィルソン外交

 アメリカは帝国主義路線を歩んだが、民主党ウイルソン大統領は、ヨーロッパの戦争(第一次世界大戦)には中立の立場を取りモンロー主義を遵守する姿を示した。

さらに国際連盟を提唱するなど、平和の使者というイメージがあるが、事実は違った。

戦争調停役(中立国の役目)として、戦後のヨーロッパ主導権を握ろうとしたのである。状況が変化して、講話のテーブルに着くには参戦する必要があると見ると、しっかりと参戦した。国内では参戦反対派を追放・投獄するなど、抑圧的な態度を取った。

民族自決(各民族が自己決定する主権性)」と「国際連盟」の提案は、ヨーロッパ植民地の独立を促して列強勢力を切り崩し、アメリカを中心とする新世界秩序を構築することにほかならない。

 

軍縮(ワシントン体制)

 アメリカの国際連盟加入は、連邦議会のねじれ現象により否決され、政権も共和党へ移った。

アメリカは1922年にワシントン会議を開き、戦勝国の海軍を縮小する条約を締結した。軍備費ではなく、経済の発展に資金を使うためである。そして中国大陸の権益を握る戦勝国に、市場開放と自由競争を促す努力もした。日英同盟を破棄させて、列強を分断させた。

アメリカは戦勝国への多額の債権を元手に、敗戦国ドイツやヨーロッパの復興で一儲けし、更には日本政府とアメリカ金融界のパイプも作った。モーガン商会は関東大震災の復興費用等を調達し、日本への経済的支配も強めた。

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