ロードアイランド植民地
異端としてマサチューセッツ湾植民地を追放されたバプテスト派が、信仰の自由を求めて移住した土地である。世界七不思議のひとつがある、ギリシャのロードス島から名前を拝借した。1625年には少数のオランダ商人が入植していたが、イギリス人勢力に呑み込まれた。
1636年にロジャー・ウイリアムズはマサチューセッツの南方の土地に入植し、プロヴィデンス(神の摂理という意味)の町を建設した。現在のロードアイランド州の州都である。
彼が作成した盟約では、政教分離と信教の自由を保障した。この原則は、アメリカ合衆国憲法修正第1条につながる。彼は平等さを重視し、これには先住民も含まれた。1644年には、「プロヴィデンス・プランテーション」として本国からの特許状を取得する。1652年には、奴隷制も廃止した。
一方、1638年に移住したアン・ハッチソンを始め、ロード島(アイランド)にも幾つかの町が建設される。1664年には、「ロードアイランドおよびプロヴィデンス・プランテーション植民地」として認可され、後半部分を省略したロードアイランド植民地という言い方が一般的になる。
米国バプテスト教会発祥の地、完全な信教の自由が保障された唯一の植民地として、際立った存在となる。農業と漁業で栄え、奴隷労働で栄えるカリブ諸島に食料を供給した。そして現地で仕入れた砂糖をヨーロッパへ売ることによって富を得た。奴隷制を廃止する一方で、奴隷制に基づく三角貿易の片棒を担いで利益を得ていた。
コネチカット植民地
マサチューセッツに上陸したピューリタンは開拓者精神が豊富で、セイラムやボストンといった町に留まらず、周辺に拡がった。エドワード・ウィンズロウは1632年にコネチカット川流域を探検し、ほどなく入植が始まった。コネチカットとは、先住民の言葉で「長い川に沿った土地」という意味である。オランダ領として少数の住民がいたが、押し寄せるイギリス人をとどめる力はなかった。
1636年にトマス・フッカーはハートフォードにて、マサチューセッツ湾植民地からの独立を宣言する。長老派教会と政府の癒着と他派への不寛容という政治・宗教的不満を受け皿に、入植者は増えていき、幾つもの町が建設される。
1639年には「コネチカット基本法」が起草される。枠組みはマサチューセッツに通じるが、宗派を問わずに自由市民としての権利を得られる点が大きく違う。
1662年にチャールズ2世により、西側のニューヘイブン植民地を吸収合併した形で特許状が与えられる。
信仰の衰え
宗教信条に基づく勤勉さにより、マサチューセッツの共同体は繁栄した。様々な職を担う人材にも事欠かなかった。1636年には、議会主導でハーバード大学が設立され、教育にも力を入れた。
入植開始から数十年が過ぎ、現地で生まれ育った2世の時代になると、ピューリタンの信仰は衰退していった。経済的成功によって、住民は世俗化していった。1652年には独自の通貨を鋳造、1660年に改定された航海条例も無視して、本国政府をないがしろにした。1684年に特許状は失効し、1686年には周辺の植民地と統合した「ニューイングランド王領」の一部となる。
農業・漁業・造船・製材業が発展した。石の多い土地は大規模農業には適さず、奴隷制は普及しなかった。信仰の衰えは、セイラムで始まった魔女裁判でピークを迎える。
マサチューセッツ湾植民地(1629~86)
1623年にドーチェスター会社が現在のマサチューセッツ州北東部に入植を開始したことに始まる。ほどなく会社は破産し、事業と現地の入植者は「ニューイングランド会社」に引き継がれる。1628年にはピューリタンのジョン・ウィンスロップによって「マサチューセッツ湾会社」に引き継がれる。先住民の部族名にちなむ。
翌29年には、本国で迫害されてた清教徒(非分離派)が入植を始める。彼らは信徒の連帯を重視し、会衆派教会をつくる。翌30年には、上院に相当する評議会が開かれ、会衆派の成人男性のみに自由民の資格を与えることにした。翌31年には自由民による選挙が行われ、下院に相当する議会が開設される。ちなみに年季奉公人は、年季が明けてから自由民とされる。
政治は、会衆派教会の宗教信条に基づいて行われた。他宗派は自由民になれず、”過激な考え”を主張する者は追放された。
プリマス植民地(1620~92)
1620年にピルグリム・ファーザーズと呼ばれる清教徒がメイフラワー号を下船して入植したのが始まりである。その地はマサチューセッツ州南東部にプリマス市として、現在も存続する。
前世紀からイギリスやフランスによる漁業が盛んで、漁師は度々本土に上陸していたが、定住はしなかった。入植地は1616年に出版されたニューイングランドの地図によって、既にプリマスという地名が記載されていた。
彼らが新大陸を目指したのは世俗的な理由ではなく、信教の自由を得るためだった。
彼らは清教徒(ピューリタン)の中でも、英国国教会に見切りをつけた「分離派」である。
1621年には、先住民の助けもあって農産物の収穫にあずかり、感謝祭として後に全米で祝われるようになる。しかし翌22年には、先住民を虐殺し、以後彼らを虐げ追い出すことが常套化する。
1675年には、フィリップ王とあだ名される先住民が武装蜂起する。「フィリップ王戦争」と呼ばれ、ニューイングランド全域に広がるも、翌年までには鎮圧される。先住民は、ほぼ駆逐される。
本国からの許可状がなかったのが災いし、1692年にはマサチューセッツ湾植民地に統合される。
ピルグリム
本国での迫害を逃れるために、ピルグリムが最初に移住した先はオランダだった。信教の自由は保障されたが、居候の身分しか貰えなかった。自由な道徳環境は、子供たちの信仰に悪影響を及ぼした。
ここは新天地ではないことに気づいたピルグリムは、新たな移住先を模索する。
彼らはヴァージニア会社からハドソン川河口(現在のニューヨーク周辺)で生活を営む権利を買い取り、1620年にメイフラワー号で目的地を目指す。ピルグリム35名のほかに、67名の赤の他人も乗船した。航海や現地で共同体を運営する事は、ピルグリムだけでは不可能だったからである。
船は風に流され、目的地から300km以上離れた場所に辿り着いた。認可外の土地では乗組員を拘束する掟は何も存在しない。明文化した「メイフラワーの盟約」を結び、「赤の他人」も含めて一致団結することを確認した。この文書は、自発的同意に基づく社会契約の始まりとみなされ、アメリカ史では特別な位置を占める。
ニュージャージー植民地
ハドソン川とデラウェア川に挟まれ、ニューヨークとペンシルヴァニアに隣接する。
1629年にハドソン川沿いにオランダが開拓地を開いたのが始まりである。1664年にはイギリスが取得して、領主植民地となる。東半分の領主カートレット家の出身地ジャージー島に因む。
入植を促進するために信教の自由を認め、ヨーロッパ各地からクエーカー教徒が入植するなど、多種多様な人たちが集まった。とはいえ、免役地代をうまく回収できず、領地経営は困難を極める。西半分の領主バークレー家は、クエーカー教徒に譲り渡す。
1702年には王領直轄地になる。1708年からの30年間はニューヨーク植民地の総督の配下に入るが、1738年から再び独自の総督が任命されるようになる。
小規模農業と貿易が産業基盤だった。