七年戦争 意識のすれ違い
アメリカにはオランダやスペインも進出したが、衝突が生じた相手はフランスだった。1689~1763年の間に4回の戦争を経験している。特にヨーロッパでは「七年戦争」と呼ばれた戦闘は、新大陸でも大きな影響を及ぼした。植民地のイギリス軍は、食料や人員を現地調達(徴収)するという手段をとったが、住民はそれを圧政とみなし、ニューヨークでは一揆も起きている。
七年戦争でイギリスはヨーロッパだけでなく、北米、カリブ海、インド、アフリカ、フィリピンでも戦闘を繰り広げた。イギリスがいかに大国とはいえ、世界規模の戦いを続けたために国庫が空っぽになった。国家財政を立て直すべく、様々な税法が帝国議会を通過し、植民地でも施行される。
植民地はロンドン帝国議会での投票権がなく、植民地の意見が議会に反映させる方法がなかった。そういうわけで本国の議会は、彼らにとって独裁者だったのである。植民地は被征服民で選挙権がないのは当然だったが、13植民地は被征服民ではなく本国と同じイギリス人で構成される特殊性が、こうした問題を生み出したのである。こうした理不尽さを植民地人は「代表権抜きの課税は、暴政である。」と表現し、大いに憤った。
実はこうした状況は入植当時からあったが、本国から遠く離れたアメリカにまで法が及んでいなかったのが実情だった。実質的な義務は発生せず、こうしたザル状態を、植民地人は「有益なる怠慢」と呼んでいた。
おまけ
七年戦争の直接の影響で、ルイ16世とマリー・アントワネットの婚姻が決まった。また第一次世界大戦をピークとするプロイセン(ドイツ)の台頭、フランス革命、アメリカ独立と世界史を揺るがす恒久的な事件の引き金になった。
特異な存在の植民地
建国時点で13あった植民地だが、そのシステムをおさらいする。
新大陸は未開の地だったが、勝手に移住して良いわけではなかった。国王からの特許状が必要だった。
未開の地で、独りでは生きて行けない。共同体が必要になる。資金や船舶、船乗りなども必要になる。そのために会社が設立された。プロジェクトを立ち上げてマネージメントするリーダーと、実際に新大陸で作業する人たち(移民)、植民プロジェクトから上がる利益配当を見込んで資金を出資する資本家という、まったく別の人たちがロンドンでマッチングされたのだ。現在の株式会社に通じるシステムである。
植民地が設立されると、総督および議会が設置された。17世紀末には、二院制の植民地議会が出来上がっている。
ヨーロッパ列強の植民地は、現地政府を倒して現地民を支配するシステムだったが、アメリカではインカやアステカ帝国のような征服すべき政府が存在しなかった。また、先住民の人口密度も小さく、彼らを搾取することもできなかった。征服民から富を吸い上げるという「典型的」植民地ではなかったのである。したがって本国からの移民が大変な思いをして、農地やインフラをゼロから構築していった。結果的に、自立心が強く、本国の住民と同等の権利を求める集団が誕生したのである。
中部・・・ニューヨーク植民地
中部を探検し、植民したのはオランダだった。1625年にはハドソン川の河口部マンハッタン島へ定住した。先住民との毛皮貿易で栄えたが、1664年にイギリス艦隊が侵略し、無抵抗で明け渡す。チャールズ2世は弟のヨーク公を領主とし、「ニューヨーク」と改名する。その後も繁栄は続き、建国後まもなく最大の都市に成長する。
オランダは、建国時の設立趣意書で「宗教的寛容」を謳っていた。宗教改革後もカトリックとプロテスタントが血で血を洗う争いを繰り返していた中で、極めて特異なものだった。この精神は新大陸でも引き継がれ、イギリスに明け渡す際も「宗教的寛容」を保護することを条件とした。ユダヤ人を含むあらゆる文化・宗教が認められる多様性は、現在まで引き継がれている。当時から人種のるつぼだったのである。アメリカの州法はイギリス法をベースにしているが、ニューヨーク州はオランダ法の流れを汲んでいる。お馴染みのブルックリン、ブロンクス、ハーレムといった地名にオランダ語が残されている。
ニューネーデルランドと呼ばれた中部にはニューヨークのほかに、デラウエア、ペンシルバニア、ニュージャージーといった植民地が建設された。
北部・・・マサチューセッツ植民地
1629年にボストンで始まった植民地は、先住民の部族名に因む名前だ。
聖書の教えに忠実に生きようとするピューリタンにとって、英国本土は生活しづらい環境だった。金儲けではなく、信教の自由を求めて、彼らは新大陸へと向かった。理想の実現に向けて、移民は勤勉に働いた。様々な技能や専門知識を持つ人たちから構成され、社会が円滑に機能した。家族単位で入植することが多く、共同体構成人数の増加にも貢献した。
信仰と世俗世界の境目がなく、教会が地域社会を支配した。教会のトップは、多数決という民主的な方法で選出され、各教会の自治が尊重された。会衆派と呼ばれるイギリス国教会の一派が卓越する。彼らは、プロテスタント内の他の信仰を認めず、植民地から追放した。しかし次第に世俗化して行き、厳格な信仰は消えていく。
北部の土地には石や岩も多く、奴隷を用いた集約的農業には向いていなかった。
ニューイングランドと呼ばれる北部には、マサチューセッツのほかにニューハンプシャー、コネチカット、ロードアイランドといった植民地が建設される。
プリマス植民地
イギリス国王ジェームズ1世はピューリタンを激しく迫害したので、1620年にピルグリムは新大陸へ脱出する。そして現在のボストンの南側に無断で入植した。彼らはイギリス国教会から離脱して、より原理主義的な生活を送った。
比較的短期間でマサチューセッツ植民地に吸収されてしまうが、アメリカ人のアイデンティティに与えた影響は計り知れない。
アメリカでは恒例行事の感謝祭を行ったのは、彼らである。自由と共和制を重んじ、神の祝福を求めて果敢に行動する姿勢は、人々の規範となったのである。
南部・・・ヴァージニア植民地
入植を承認した女王エリザベス1世にちなんで、その地はヴァージニアと命名された(植民は失敗)。現在のヴァージニア州や首都ワシントンの位置する地域である。
恒久的な植民は1607年以降であり、時の王ジェームズ1世にちなんで、町の名前はジェームズタウンと命名された。余談だが、英語圏で一番ポピュラーなジェームズ王欽定訳聖書も彼の名前に由来する。
根拠のない一攫千金と黄金探しにしか目がない人たちの集まりだったために存続が危ぶまれたが、葉タバコの栽培が成功すると一変する。さらに人頭権制と呼ばれる大規模経営が有利な土地配分により、大勢の年季契約奉公人に畑を耕させる大農園のオーナーが次々と誕生した。しかし期間限定雇用ゆえの労働力の不安定さ、人件費といった問題がオーナーの悩みだった。
まもなく植民地議会が誕生する。議員はほとんどが葉タバコプランテーションの農園主だったので、彼らの発言力は、どんどん強まった。
1676年には、待遇に不満を持つ奉公人たちを率いた「ベーコンの反乱」が起きる。大規模な反乱は最終的に鎮圧されるが、農園主は、年季奉公人よりも従順で安上がりな黒人奴隷へ労働力をシフトする。
南部の別の特徴は、商業が発達しなかったことである。地形上の問題で、タバコ製品の集積所となる港湾都市が作れず、商人が育成されなかった。
最古の植民地にして南部最大人口を誇ったヴァージニアは、ワシントンを初めとする有名かつ有能な人材を多く輩出した。
ヴァージニアを筆頭に、メリーランド、ノースカロライナ、サウスカロライナ、ジョージア植民地が建設されるが、いずれも同じ末路を辿る。新大陸入植から50年も経過すると、「南部らしさ」は既に出来上がっていた。