ゼロから学ぶアメリカ合衆国

ゼロから学んだアメリカ合衆国をわかりやすく説明

独立戦争

植民地側と本国との緊張はピークに達し、1775年に武力衝突が起きる。

独立戦争の始まりである。

本国から5000㎞離れた僻地とはいえ、植民地側は軍事力の面で圧倒的に劣る。

そのため13の植民地が結束して、本国に立ち向かうことになった。

今まで植民地同士の結びつきは弱く、お互いにいわば外国同士のような間柄だった。

住民は隣接する植民地よりも、本国との心的距離が近かった。

国王の臣民として、イギリス国民の一員であるという自覚の方が強かったのである。

 

”よそ者”同士の13個を結び付ける上で、七年戦争に参戦したワシントンは適任だった。

13植民地が結束しても、尚軍事力で本国に劣るため、ゲリラ戦法で対抗する。

その間、ベンジャミン・フランクリンがパリの社交界でフランスの参戦を取り付けると、ヨーロッパ諸国も直接・間接的に植民地側に付いた。

1781年の決戦でイギリスを打ち破り、アメリカは独立を達成する。

本国の”豹変”

 13植民地独立の直接原因は、イギリスとフランスが戦った七年戦争である。

本国イギリスは戦争に勝利したものの、満身創痍の状態だった。

7年もの長期に及び、戦場はヨーロッパのみならず、アジア・アフリカ・南北アメリカと全世界に及んだ。国の金庫は底を突いた。

本国の内閣は次々と増税案を提出し、帝国議会はそれを承認した。

僻地(植民地)でも確実に徴税するために役人と軍隊を派遣して、本気度を示した。

 

 こうした動きに13植民地は反発した。

そもそも、好き好んで税金をたくさん払おうとする人など、まずいない。

でも最大の問題は、植民地側が議論に加わる余地がなかったことだった。

自分たちが選んだ代表が多数決で決めたことと、独裁者が勝手に決めたことでは、

同じ内容でも受け止め方が大きく変わる。

権利を与えずに義務ばかり押し付ける姿勢に、不信と警戒感が強まった。

優しく成長を見守っていた親が、急に毒親へ変化したように映ったのである。

 

17世紀のイギリス

 13植民地の歴史を語るうえで、本国の歴史は避けて通れない。植民地の特許を複雑にしたのが、度重なる政変である。

 1639~60年に及んだイングランド内戦のクライマックスが清教徒革命である。チャールズ1世が1649年に処刑され、清教徒オリバー・クロムウェルを中心とした共和政府にとって代わる。

 彼の死後、1660年に王政は復古し、処刑されたチャールズ1世の長男チャールズ2世と次男ジェームズ2世が統治する。

 1688年には名誉革命によってジェームズ2世は退位に追い込まれ、娘婿のウイリアム3世がオランダから迎えられる。

 3つの政変により、4つの支配体制が存在したことになる。植民地は本国で革命が起こるたびに、新しい政治体制から認可を再取得する必要が生じたのである。認可が取り消されたり、逆に新たな植民地が認可されたり、複数の植民地が統合されたりと、様々な変化がもたらされた。

統治者の名前を順に挙げるとエリザベス1世ジェームズ1世、チャールズ1世、護国卿クロムウェル、チャールズ2世、ジェームズ2世、ウイリアム3世となる。

 

植民地の統治形態

 1つ目は、本国に無許可で勝手に創設されたもので、最初期に北部で誕生する。プリマス、ニューヘイブン、プロヴィデンスコネチカットが該当し、1691年までには姿を消した。住民の自発的な同意に基づく「社会契約」をベースに成り立つ。

 2つ目は、本国からの許可状に基づいたものである。

  社団が運営する自治植民地は、政府がカネや人材を労せずに民間組織が国益を推進してくれるので、初期にみられる。a)ヴァージニアとマサチューセッツ、b)ロードアイランドコネチカットが該当する。

  個人に与えられた領主植民地は、封建的な形態である。a)ニューハンプシャー、ニューヨーク、ニュージャージー、カロライナ、ジョージア、b)ペンシルバニアデラウェア、メリーランドが該当する。

 3つ目は、国王・本国政府が直接統治するもので、王領植民地と呼ばれる。本国が最も望む形態であり、上記のa)は後に王領化された。

 

 

ニューヨーク植民地

 オランダが1609年にハドソン川を発見すると、オランダ商人が毛皮取引で度々訪れるようになる。

 事業は国営化され、1624年には現在の州都オールバニおよびニューヨークで恒久的入植が始まる。翌25年にはマンハッタン島での入植が始まり、ニューアムステルダムと呼ばれる。防御壁を築いた部分は後のウォール街、目抜き通りはブロードウェイとなる。ユダヤ人を含むあらゆる文化・宗教が認められる多様性は、本国に通じるものだった。

 1664年にイギリス艦隊が侵略し、チャールズ2世は弟のヨーク公に与える。ヨーク公は領地の一部を2人の友人に与え、その地はニュージャージー植民地として分離する。

 1673年に第三次英蘭戦争の一環でオランダが再度占領するが、終戦によりイギリスに割譲される。ニューアムステルダムは、ニューヨークに改められ、現在に至る。

1685年に領主ヨーク公ジェームズ2世として即位するのに伴い、王領植民地となる。

1688年にはニューイングランド自治領の一部に編入されるが、1691年に再び独立する。

 イギリスの支配になっても、オランダの影響は生き続けた。1683年に制定された植民地憲法は、他の植民地よりも多くの権利を住民に保障した。

ニューハンプシャー植民地

 マサチューセッツとカナダとの国境を流れるセントローレンス川に挟まれた地域である。1622年にジョン・メーソンとフェルディナンド・ゴーシスに特許状が下り、イングランド南部のハンプシャー州に因んで名付けられた。

翌1623年に入植が始まり、間もなく州都になるポーツマスが建設される。日露戦争講和条約が結ばれた都市である。いくつかの会社と合流したりもしたが、1641年には自治を条件にマサチューセッツ湾植民地の一部となることを同意する。自治と地理的隔絶ゆえに、1680年には本国直轄領「アッパーカット・プランテーション」として独立する。

 総督は、1741年までマサチューセッツの総督が兼任した。

ニューヘイブン植民地

 1637~62年まで存在した植民地で、現在のニューヨークとコネチカット植民地に挟まれた地域である。

 ジョン・ダベンフォート率いるピューリタンの一団は、信教の自由を求めてマサチューセッツを目指すが、彼の目には堕落した社会として映り、より良い宗教環境を求めて西に航海を続けた。

 こうして1637年に辿り着いて建設したのが、現在も続くニューヘイブンである。マサチューセッツと同じ会衆派を信仰し、他の宗派には選挙権を与えなかった。貿易立国を目指したが、当地を挟むニューヨークとボストンとの競争に勝てず、さらには時の王の怒りを買った人物をかくまったことが災いし、コネチカットに併合されることになる。

 その後1716年には、ニューヘイブン市にイェール大学が開設される。

おまけ

 1641年にニューヘイブン植民地は、先住民からデラウェア川周辺の土地を先住民から買い取る。この地域はオランダとスウェーデンが支配していたので、翌年には奪われてしまう。

しかし合衆国建国後に問題が起きる。先住民との売買には東西の境界線が設けられていなかったので、「海から海まで」と解釈され、コネチカット州の領土主張の根拠となる。