ゼロから学ぶアメリカ合衆国

ゼロから学んだアメリカ合衆国をわかりやすく説明

国家建設と憲法制定

アメリカ合衆国という国体が設立され、独立宣言の翌年に制定された「連合規約(AoC)」に基づいて大陸会議が運営されたが、そこに行政・司法機関は存在しなかった。立法府である連邦議会は一院のみ、票数も13(各州1票)しかなかった。法案の成立は全会一致が必要で、州ごとのエゴが蔓延していた。例えば連邦政府の財源として輸入品に5%の関税をかけることが提案されたが、ロードアイランドだけが反対して、努力は水の泡に帰した。(現在の国連安全保障会議で拒否権を発動した時も同じことが起きている。)これにより大陸軍兵士への給与支払が拒否され、現場は反乱寸前の状態になった。

植民地の住民は、Country(国)という単語を見ると、「アメリカ合衆国」ではなく、自分の州を連想した。連邦議会の議員も「大使」と呼ばれていた。州をまたいで取引する際には関税が発生し、州同士の境界線を巡って武力衝突が起きることもあった。意識的には、別の州は外国だったのである。

1787年憲法制定会議が招集される。会場はアメリカ最大の都市にして、13州の中央に位置するフィラデルフィアだった。ワシントンが議長として選ばれた。大統領をトップとする行政府と、二院制の連邦議会、議会が指名するメンバーで構成される司法府の三権が設立が決定した。各州の権限が絶対的である「連合規約」を修正すればよいという弱小州と、連合規約は改正して権限を強化した連邦政府を望む強豪州に分かれて、会議は紛糾したが、強豪州が上院の議席数は(人口の)比例制ではなく平等に配分することに同意すると、その後の審議はスムーズに進んだ(「大いなる妥協」と呼ばれる)。

こうしてできた合衆国憲法は、州全体の3/4が批准すれば成立することになったが、3年近くかかって全部の州が批准した。1788年には規定数に達していたので、大統領選挙を実施し、満場一致でワシントンが選出された。なお、合衆国憲法は、13州の批准を待たずして、1789年には加筆されている。

目次へ 戻る

国家建設と憲法制定

アメリカ合衆国という国体が設立され、独立宣言の翌年に制定された「連合規約(AoC)」に基づいて大陸会議が運営されたが、そこに行政・司法機関は存在しなかった。立法府である連邦議会は一院のみ、票数も13(各州1票)しかなかった。法案の成立は全会一致が必要で、州ごとのエゴが蔓延していた。例えば連邦政府の財源として輸入品に5%の関税をかけることが提案されたが、ロードアイランドだけが反対して、努力は水の泡に帰した。(現在の国連安全保障会議で拒否権を発動した時も同じことが起きている。)挙句の果ては拠出金を出さない州も現れて、大陸軍兵士への給与支払がストップし、現場は反乱寸前の状態になった。独立戦争を戦い抜くには大陸会議という権威付けが役立ったが、戦後に州憲法が整備されると連邦政府の存在意義は大いに薄れ、州政府によって承認された連邦政府という状態に墜ちた。

植民地の住民は、Country(国)という単語を見ると、「アメリカ合衆国」ではなく、自分の州を連想した。連邦議会の議員も「大使」と呼ばれていた。州を越えて取引する際は、外国との取引と同様に輸入税が発生した。意識的には、別の州は外国だったのである。

1787年憲法制定会議が招集される。会場は全米最大の都市にして、13州の中央に位置するフィラデルフィアだった。ワシントンが議長として選ばれた。大統領をトップとする行政府と、二院制の連邦議会、議会が指名するメンバーで構成される司法府の三権が設立が決定した。各州の権限が絶対的である「連合規約」を修正すればよいという弱小州と、連合規約は改正して権限を強化した連邦政府を望む強豪州に分かれて、会議は紛糾したが、強豪州が上院の議席数は(人口の)比例制ではなく平等に配分することに同意すると、その後の審議はスムーズに進んだ(「大いなる妥協」と呼ばれる)。

こうしてできた合衆国憲法は、州全体の3/4が批准すれば成立することになったが、3年近くかけて全ての州が批准した。1788年には規定数に達していたので、大統領選挙を実施し、満場一致でワシントンが選出された。なお、合衆国憲法は、13州の批准を待たずして、1789年には加筆されている。

目次へ 戻る

第五部 建国から南北戦争まで

 アメリカ合衆国の歴史は 、速やかに独立戦争に勝利し、ワシントン大統領が独立宣言を読み上げて憲法を発布した。というような単純なものではない。上記の内容はすべて”イメージ”で、事実に反する。

第五部はかなり踏み込んだ内容となっているが、平易な内容を心掛けたつもりである。初めて見聞きする内容ばかりかと思うので、下記の目次を見て、あんなこと言っていたなぁと感じられれば、それで十分である。

目次

独立宣言

国家建設と憲法制定

大統領の誕生

政党政治

ルイジアナ購入 

米英戦争

モンロー

大衆の大統領

黒人問題

付録:大統領、北西部領土

第六部へ

ヨーロッパ列強の入植史

  アメリカへの植民を行ったのは、イギリスだけではない。陸続きのカナダも含めて、その歴史を国ごとに解説していく。

イギリス

 カナダのニューファンドランド島と、マサチューセッツ、ヴァージニアの3か所から植民を始め、北米大陸の大西洋岸を掌握する。七年戦争に勝利して、1763年にはフランス領をすべて手に入れる。アメリカは1776年、カナダは1949年に独立する。

 フランス

 ビーバーの毛皮貿易に有利なセントローレンス川と水源の五大湖に沿って入植がはじまる。イギリスもハドソン湾で毛皮貿易を始めて独占体制が崩れると、五大湖南側のミシシッピ川を下り、メキシコ湾に達する。ルイ14世にちなんで、この流域は「ルイジアナ」と呼ばれる。七年戦争後の1763年にすべてを失う※。先住民との関係は良好だった。

※1803年のルイジアナ購入と矛盾するように見えるが、ミシシッピ川西岸を1762年にスペインへ売り渡し、ナポレオンが1800年に取り戻した経緯がある。

 スペイン

 メキシコから北上し、1543年までには太平洋岸のバンクーバーまでを領有する。太平洋岸の領土は、19世紀のメキシコ独立によって失う。フロリダもほぼ全期間領有していたが、1819年にアメリカ合衆国へ売却する。

 オランダ

 コネチカット川、ハドソン川デラウェア川に沿って入植する。植民地が南部と北部に分断されることを嫌ったイギリスが1664年に侵略し、すべてを失う。

 スウェーデン

 1631年にデラウェア川西岸に入植するも、ヨーロッパで勃発した北方戦争に専念するため、1655年にオランダへ明け渡す。

目次へ 戻る

独立戦争(アメリカ革命)

日本では「独立戦争」で通っているが、現在のアメリカでは"American Revolution"または"Revolutionary War"と表記され、”独立”ではなく”革命”という言葉が使われている。

  戦闘は1775年に最北のボストンから始まり、ニューヨーク、フィラデルフィアと南下した。1778年には最南端のジョージアへ移り、サウスカロライナノースカロライナ、ヴァージニアと北上した。同時進行ではなく、転戦に次ぐ転戦というスタイルだった。

武力衝突は1775年4月に民兵と英国軍の間で突発的に始まった。その後2回目の大陸会議が開かれ、「大陸軍」と呼ばれる正規軍が組織され、ワシントンが総司令官に指名される。

一方の英国軍も、大陸軍に呼応した欧州列強の参戦もあり、ヨーロッパや他の植民地での戦闘に手いっぱいの状態で、アメリカ部隊を増強することはできなかった。それで植民地に反感を抱いている先住民や、英国王室に愛着を感じる王党派市民で兵員を補充し、大陸軍が内部崩壊するのを待っていた。土地を占領しても、勢力を維持するための駐留軍を残す余裕がなかったのである。ワシントンもこのことは百も承知で、あえて決戦を避けて兵力を温存し、英国軍が干上がるのを待っていた。

戦争中「大陸会議」は中央政府として機能し、翌1776年の7月にはイギリスからの「独立宣言」が行われる。お互いに相手の自滅を待つしかない不毛の戦いが続いていたが、フランスの直接参戦により戦況は変化し始める。1781年のヴァージニア州ヨークタウンの戦いが「決戦」となり、大陸軍が勝利して戦闘は事実上終了する。1783年のパリ講和条約で正式な終戦となる。

 

目次へ 戻る

ボストン茶会事件(Boston Tea Party)

13植民地の表向きは平穏だったが、1773年の紅茶法は致命傷となった。

紅茶の不良在庫に悩み,経営の苦しかった国策東インド会社を救済するため、東インド会社に紅茶の専売権を与えたのだ。現在は紅茶だけだが、行く行くは植民地貿易全体を本国が独占するようになるのではと危惧した。

紅茶法の政治的意図を汲み取った植民地側は、港に到着した紅茶を陸揚げしなかったり,倉庫に封印するなどの措置を講じたが、ボストン市民は船内に乗り込んで積み荷を海に投げ捨てるという過激な形で抗議した(「ボストン茶会事件」)。

本国政府は、ボストン市やマサチューセッツ植民地への制裁を含めた5つの法律で報復する。一連の法律は「耐え難き諸法」と呼ばれるが、その中でも「ケベック法」は脅威となった。拡張されたケベックとの境界線が、南部の植民地と直に接するようになったのである。緊張は一気に加速する。

ジョージアを除く各植民地の代表は一堂に会して「大陸会議」を開き、「代表なき課税」が撤廃されるまで本国との貿易制裁を決議する。取引は前年の僅か3%まで落ち込み、大きな成果を上げる。

おまけ

 英語圏での嗜好飲料は紅茶であるが、アメリカだけはコーヒーである。これはボストン茶会事件を受けて大陸会議が決議した紅茶ボイコット運動の産物である。

目次へ 戻る

植民地の反発 「相応の税負担」

  大西洋とアパラチア山脈を挟まれた13植民地は、その背後をフランス領に囲まれていたが、七年戦争に勝利して大陸のフランス領は駆逐された。戦費回収に悩んだ本国は、植民地にも相応の防衛費を負担してもらおうと考える。「宿舎割当法」は、大陸イギリス軍の食料や宿舎を植民地側に負担させることだった。しかし、外国の脅威が除かれたのに、なぜ本国からの軍隊を養わなければいけないのかと反発した。

イギリスでは航海法と呼ばれる関税法が存在したが、僅かな人数の役人で次々と出入りする貿易船を管理することは不可能で、植民地は事実上の治外法権だった。しかし、役人を増員し、七年戦争で増備された艦隊を活用して、本格的に課税することにした。砂糖法とも呼ばれる「収税法」や「タウンゼント法」により、輸入品や輸出品に課税する。本国は圧政的どころか、密輸に必要な賄賂よりも少ない税額を設定し、植民地側とウィンウィンの関係になるようにした。ところが、これらの税金は大きな反対に逢い、僅か一年で撤廃される。要は金額の問題ではなく、アメリカの民意不在で課税に至ったプロセスが許し難かったのである。

 こうした不満は印紙法で全米に一気に広まった。証書のみならず、トランプのカードまでありとあらゆる印刷物に課税する内容で、その浸透度の高さから、貿易の盛んなマサチューセッツのみならず全植民地で反発に逢うことになり、やはり1年で撤廃された(印刷物に印紙を貼る必要があるが、植民地側で誰も印紙の売人に名乗りを上げなかったのである)。一見、植民地いじめにも見える内容だが、実は本国でも同じ内容が既に徹底施行されていたのである。

植民地では緊張が高まり、英兵が市民に惨殺される「ボストン虐殺事件」が起きた。

 

目次へ 戻る